明治〜戦後の医薬分業以前

明治〜戦後の医薬分業が行われる前の状況

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日本では長く漢方医療が中心でした。医師は薬師とも言われ診断と調剤は同一のものだったのです。

 

明治〜戦後の医薬分業が行われる前の状況

 

明治政府がドイツの法制度を導入した

 

歴史的に記録のある明治までの日本の状況を見てみましょう。古くは聖徳太子が四天王寺で薬草園を栽培し、病気・怪我で苦しむ人を救ったとあります。江戸時代には八代将徳川吉宗が小石川薬園に1722年に小石川養生所を開設した記録があります。小石川薬園では漢方医が診察し投薬も行っていました。

 

江戸中後期にはオランダより西洋医学が入り、オランダ医学と漢方医学が同居した「医学兼業」の時代でした。当時は医師免許も無く自由に開業できました。また医師は薬師とも呼ばれ、漢方医薬の知識があり調剤できるものが医師であったのです。

 

明治政府は、日本で続いてきた医薬同一の考え方を改め、西洋に習い近代化をするために法制度を導入しました。当初はイギリスに学びましたが後にドイツの法制度を取り入れたのでした。

 

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医制で医薬分業が規定される

 

医療での法整備を行った経緯を見てみましょう。まず医学教育の基礎を作るため東京大学、長崎大学などに病院と医学校を設置しました。1869〜70(明治2〜4)のことです。そして1874年に医制を定めました。この医制は西洋医学に基づく医学教育と医師開業試験、薬舗開業試験が定められています。

 

薬舗とは一般小売する薬店です。法制度に移行の際は特別な配慮も行われました。すなわち従来より開業していた医師には医師免許を与え、薬舗主には仮免許を交付したのです。

 

この医制では初めて医薬分業が導入されかつ明示されました。41条に「医師たるものは自ら薬を売ることを禁ずる。医師は処方書を病家に附与し相当の診察料を受くべし」とあります。

 

 

さらに1889年(明治22年)には薬律が公布されました。これは薬品営業並薬品取扱規則のことです。ここで「薬舗」は薬局、「薬舗主」は薬剤師と定義されました。ここで薬舗主の仮免許は失効し薬種商に移行ました。

 

その移行変遷を見ると、江戸時代の生薬屋が薬舗になり、更に薬局と薬種商に分離したのです。驚くべきことに、2009年の改正薬事法まで明治時代に作られた薬種商販売業は存在していました。

 

医制、薬律により医薬分業は制度上は確立していたのですが長く有名無実の状態が続きました。
その理由は二つあります。一つは医師の猛烈な反対があり、薬律の附則に医師の自己調剤を認めたことです。薬局の受け入れ態勢が十分でなかったこともありました。もう一つは患者側が薬局で薬を受け取る習慣がなかったことです。薬は医師に出してもらうものという通念があったためです。

 

 

■医制(1874年)

 

主な条文

 

第41条 医師たるものは、自ら薬をひさぐことを禁ず。医師は処方書を病家に附与し、相当の診察を受くべし。

 

第55条 調剤は薬舖主、薬舖主代、及び薬舖見習にあらざればこれを許さず・・・

 

第65条 医師より投ずるところの処方書は、その方に従いて詳細に調合し、いささかも私意を加うるべからず。

■薬律(1889年)

 

主な条文

 

第1条  「薬剤師とは薬局を開設し医師の処方箋により薬剤を調合する者をいう」

 

第43条 「国家は自ら診療する患者の処方に限り、当分の間自宅に於いて薬剤を調合し販売授与することを得」




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